小さいころの私は完璧主義だった。
クラスの中でなんでも1番をとらなければ気が済まなかったし、両親もそれを望んでいた。
だからものすごく努力をしたし、勉強も、スポーツもなんとか頑張ればその成果は出ていたと思う。
中学までは。
私は個人スポーツをしていて、高校は親元を離れた。
中学では全国で13、4番くらいだったかな。
トップとは大きな差があったし、技術的にもそれほどすごくはなかった。
でもトップに立ちたいと強い気持ちを持ち、毎日練習に明け暮れた。
でも、努力だけではどうにもならいこともあると今なら思う。
あれだけ頑張っても自分はトップにはとうてい及ばなかった、それが現実だ、そう振り返る。
当時は自分の実力を受け入れることができず「どうして」「こんなに練習しているのになんで結果がでないんだろう」と悩み、苦しんだ。
しかし、当時の悩みも時間が解決してくれた。
今こうしてすべてを受け入れることができている。
ただ、私の戦友がオリンピックに出場すると、母は
「お前も大学、社会人と続けていたら、オリンピックに出てたかもしれないね」
という。
はっきり言おう、無理です…
でも、否定しても還暦を過ぎた母に受け入れてもらうことはできない。
「そうかもしれないね」
そう返すのが優しさなのかなと、最近思うようになった。
うまくかわせるようになったということかな。
今思うことは、人間は完璧にはなれないし、得意なものもあれば不得意なものもある。
なにがなんでもすべて手に入れることは不可能で、手に入れることばかりに執着すると苦しみの多い人生を選択してしまう。
自分は何が得意で不得意、それは自分だけが見つけ出せるもの。
周りが評価するものではない。
今はもうすべて頑張ろうという思いはなくなった、というより無理、不得意なものを頑張り続ける苦痛の方が強い。
だから、いつも折り合いをつけている。
私は運転が苦手。だから雨の日や夜は極力運転はしない。
方向音痴。新しい場所へ向かうときはGoogleマップであらかじめ調べておく。
お金を扱うのが非常にストレス。会計は引き受けないようにしているし、どうしてもの時は、力になってくれる人と一緒にやってもらう。
少し前の私は、自分の苦手が「弱点」であり、恥ずかしいと思っていて言えなかった。
でも、無理をすると相手の自分への期待値が上がり、自分が苦しくなる。
自分が苦手とするものを素直に言ってしまっても、それはそれでいいんじゃないかなって思っている。
好きなことも、苦手なことも、少しずつ自己開示していくのが私の課題。