「ひとりになる勇気、人とつながる力 友だちってなんだろう?」/斉藤孝著
今回は「友だちづきあいを無敵にする3つの力」の2つ目
「気の合わない相手ともうまくつきあう」力について気づき、感想を述べます。
「いじめ」について大きな気づきを得ました。
まず、人をいじめてしまう危険性を、みんな潜在的に持っているそうです。
人間という生き物のもっているひとつの特性、集団のなかで優位な立場に立ちたい、という気持ちから発する攻撃特性と関係していると考えられている。
いじめることで相手が困ったり苦しんだりする姿を見ると、自分の力で支配できていると感じて、快感がわく。優越感が持てる。気持ちよくなる。もっとやる。
つまり、攻撃的な資質をもった一部の人だけがやるのではなく、誰もがいじめてしまう危険性を潜在的にもっている、ということです。
その快感に勝てない人は、何かしら理由をつけて、いじめる自分を正当化しようとするそうです。
しかし、人としての倫理観よりも、自分の快感という欲求を優先させてしまうというのは、人間として弱く、未熟だと著者はいいます。
私は人をいじめたことがないと自負しています。
が、身近なところでいえば、夫婦の間で意見の食い違いがあったときに無視をしたり、足音を大きく歩いてしまうことがありました。
夫は寂しそうな表情を見せるのです。
これって、いじめの心理だな、と思いました。
夫よりも優位な立場に立ちたくて心理的な攻撃をし、困った顔を見るのを楽しんでいることになる…
私は自分の快感を得たい欲求に負けている未熟ものでした。
こういう考えや行動がいじめに発展するのでしょう。
モンスターになる要素は誰でももっている。
だからこそ、自分で歯止めをかけていかなければならないのです。
加害者にならないためには、この欲求をコントロールすること、
「気の合わない人、苦手なひとともうまくやっていく」力が必要です。
著書の具体例を紹介します。
「友だちだから言うけど」は鋭い刃。
この言葉で相手は傷ついているかのしれない。
親しい友だちだったら、感情をストレートにぶつけていいことはなく、どんなに親しい関係でも礼儀が必要、節度が必要です。
と述べています。
もう一つは「本音をいわせてもらうと」も破壊力のある危険な言葉です。
「本音」に破壊力があります。
本音があるということは建前があり、これまでの言葉や態度とのギャップが大きいほど、相手を深く傷つけてしまいます。
普通に、日々和やかにつきあっていくには、本音は必要ない。
本音という感情的な部分を抑えつけてつきあっていくのが、人付き合いのルール、マナーというものです。
この2つ、思春期のころよく言われました。
「私のことを思って言ってくれてるんだよね」
「私はこういうところが悪いところだから直さなきゃ」
無理して笑顔をつくってうんうんと聞いて、気づかないふりしていたけど、傷ついていたんですね。
そして「正論を言ってあげた方が、この人のためになるかな」と思い、大人になってから友人に伝えたこともありました。
その時一緒に出かけていたのですが、その後ずっと元気がなくなっていました。
私も同じように傷つけていたのです。
親しい人でも、気の合わない人にでも、何でもかんでも言っていいわけじゃない。
自分が言われて傷つく言葉や、本音を容易く言ってはいけないのです。
気の合わない人、苦手な人ともうまくやっていく。
こういうことができるようになると、親しい友だちづきあいがうまくいくだけでなく、対人関係全般にわたって、いまよりもっとうまくやることができるようになる。
この力は結果的にいじめの加害者にならないことに強く結びつくのだと思います。
しかし、もしいじめの被害者になってしまったら。
いじめと捉えなくても、頑張っていると足を引っ張ろうとする、悪口を広めたり、ずるいことをしたりする、まわりの人たちを巻き込んで仲間はずれを主導するなど、マイナスの影響を与える人たちとは、友だちでいる必要はないのです。
その時は「自分の身を守る」
その一つとして「逃げる」こと。
逃げるのは生き延びるための方法、手段を見つけること。
そして「一人を楽しめる」力が、精神的な面での逃げ場として必要だといいます。
これは、加害者にならないためにも必要な力です。
「一人を楽しめる」力については次回また感想を述べます。
気の合わない人と全く関わらないというのは、社会人になってからは無理なことです。
目を合わせなかったり、悪口を言ったり。
それでは仕事がうまくまわらないし、結果的に自分を追い詰めることになるのです。
最低限相手を傷つけないマナーや、スルースキルを身に着けていく必要があるのだと私は考えます。